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こども食堂のおばちゃんのコラム

明治時代の日本のこども その2

 

~イザベラバード 「日本紀行」で語られた 142年前のこどもたち~

明治11年(1878年)イギリス人女性イザベラ・バード(→Wikipedia)が日本(栃木県日光以北~蝦夷)を数カ月かけて旅をし、各地の民俗を研究し、日本の子どもたちの事を記録に残したことは前回お話しました(→その1)。イザベラの旅の目的は、当時の日本の記録を残すこと、さらに父親が聖職者であったことから日本への布教が可能かを探るという目的もあったようです。

 

当時まだ日本の風習が世界に知られていなかったため、イザベラは見るもの聞くものすべてが純粋に感動と驚きの連続だったようです。

日本に上陸してから3週間、浅草寺での見聞を記録しています。

「ほかのどこでもそうであるように何より私が興味を掻き立てられたのは人間でした。人々の敬虔ながらも、不敬の場合の方がそれより多い礼拝の仕方、お粗末で幼稚な迷信、物乞いや暴徒が全くいないこと、大人の男や女の子どもっぽい遊び、正装姿の子どもたちとその重々しい態度、宗教と娯楽が奇妙に混在していること、(中略)両親と子どもたちが親子連れで楽しんでいる姿のないこと、それでいながら女性は男性の居る中を全く自由に動きまわっていること、子どもたちが父親からも母親からも大事にされていること、人々の体の小ささ、女性たちが顔を隠さず、また地味な顔立ちをしていること、誰もが清潔でキチンとした身なりである事、みんなきわめておとなしい事、昼日中に何千人もの人々がお寺に押し寄せているのに、みんな礼儀正しく秩序が保たれていること、ひとりの警官もその場に居なかったこと、こういったことに私は深い感銘を受けました。」(第8信より)

また、日本人の外見や雰囲気についてイザベラはこのように述べています。

「女性、特に娘たちはしとやかで優しくて感じがいいのですが、美貌に関してはこれならまずまずという程度の顔にさえ出会えませんでした。鼻はぺったんこで唇は厚く、目は斜めに吊り上がったモンゴル人種のタイプ。」

 

「一般的な風習が一目でわかる生気のなさと相まってほとんどどの顔もうつろでぼんやりして見えます。」

 

「体つきは貧弱で筋肉が無くて痩せている点は大体どの男性にも共通しています。私の受けた印象はこれまで会った中で最も醜くて最も感じのいい人々だ、それに最も手際が良くて器用だというものです。」(第8信より)

これらは日本人を見ての実感だろうと推察され、過度に媚びていないところに、真実があるようにも思われます。ただし、容姿について辛口であることが若干気になりますが。当時はあまり東洋の美が理解されていなかったのかもしれません。

イザベラは6月に入り、東京から日光へと外国人未踏に地へ旅が始まりました。日光入町に暮らす子どもたちの様子が記録されていました。

「午前7時には太鼓が鳴り子どもたちを学校に集めます。校舎はイギリスならどの教育委員会をも辱めないものです。西洋化しすぎていると私は思いましたが、子どもたちは現地式に床に座るのではなく、椅子に腰かけて机に向かい、とても居心地が悪そうです。(中略)服従は日本の社会秩序の基本で、家庭で絶対服従に慣れている子どもたちが相手なので教師は何の苦も無く子どもたちを静かにさせたり自分の方に注目させたり、言う事を聞かせたりできます。教科書を懸命に読んでいる子どもたちの大人びた顔には痛々しいまでの熱意があります。外国人(イザベラ本人)が教室に入ってくるというめったにない出来事があっても生徒たちはよそ見などするものではありません。」(第13信より)

この記述は今ではちょっと想像し難い場面のようです。

 

日光の財産家、金谷邸で女の子のパーティーが開かれた時の一部始終の記録もまた時代を反映していて、今の子どもたちの遊びでは見られないものだと思います。

「ゲームの一つに面白いものがありそこそこの意気込みとかなりの威厳を持って行われます。この遊びは一人の子どもが病気のふりをし、別の子どもが医者となるのですが、医者役は威張ってもったいぶった様子を、それに病人役はいかにも弱々しく苦しそうな様子をとても上手にまねるのです。あいにく医者はその患者を死なせてしまい、患者は死んだふりをしましたが、白塗りの顔がとても効果を発揮しています。次いで葬式と喪がありました。子どもたちはこのように婚礼や宴会その他の人生の様々な出来事を劇化します。この子どもたちの威厳と落ち着きは素晴らしいものです。実のところ日本の礼儀作法に必要なすべての事は、子どもたちが言葉をしゃべれるようになるとすぐに手ほどきが行われ、10歳にもなればどんな時にどうすべきか、何をしてはいけないかを正確に心得ているのです。」

 

「パーティーがお開きになる前にもう一度お茶とお菓子が振る舞われます。それを断るのも、また一度手を付けたものを残すのも礼儀に反するので、小さな貴婦人たちは残したものを大きな袖の中に忍ばせました。客が去っていくときは出迎えた時と同じように堅苦しい挨拶が交わされました。」(第13信より)

イザベラは、随所に日本の子どもたちはおとなしく礼儀正しいと記しています。また一般家庭の様子も記録しています。

「朝、子どもたちが学校に行っているあいだ、村は(日光 入町)静かです。子どもたちが帰ってくると少し活気づきますが、子どもは遊んでいる時ですらおとなしいのです。夕暮れに男たちが戻ってくると、活気が少々増します。お風呂で威勢よくお湯を使うばしゃばしゃという音が聞こえ、その後男たちは幼い子どもたちの遊びの相手をします。夕食が済むと子どもたちは行灯の周りでおとなしくゲームに興じます。そして夜10時になると家族全員が一つの部屋で寝ます。子どもたちは両親と一緒に夜遅くまで起きており、大人の会話にも全て加わります。」

 

「これほど自分の子どもたちを可愛がる人々を見たことがありません。抱っこやおんぶをしたり、手を繋いで歩いたり、ゲームをやっているのを眺めたり、一緒にやったり、しょっちゅうおもちゃを与えたり遠足やお祭りに連れて行ったり、子どもたちが居なくては気が済まず、また他人の子どもに対してもそれ相応に可愛がり、世話を焼きます。父親も母親も子どもを自慢にしています。毎朝6時に12人~14人の男が、低い塀に腰掛け、2歳以下の子どもを抱いてあやしたり遊んでやったりしてその子の発育の良さと利口さを見せびらかせているのを見るのはとても愉快です。」(第13信)

子ども自慢をするのが母親でなく父親同士というのが何だか微笑ましいですね。これは現代の話ではなく、142年前の話です。

「男の子が好まれるとはいえ、女の子も同じように可愛がられます。子どもたちは私たちの概念からすればおとなしすぎるし、しゃちほこばってもいますが、外見や態度は非常に好感がもてます。とても素直で言う事を聞き、両親の手伝いをよくし、自分より年少の子どもたちの面倒を見ます。それに私は遊んでいるときの子どもたちをよく見ましたが、怒っている言葉を耳にしたことはおろか、不機嫌な顔をしているのを見たことすら一度もありません。彼らは子どもではなく小さな大人なのです。子どもたちが大人びて見えるのは大人と同じものを着ているからというのも大いにあります。」(第13信より)

このようにいたるところで、明治期の親が子どもを可愛がる情景が記されています。当時は決して豊かな生活ではなかったはずです。なのに、親が子どもを大切にし、可愛がる日常が確かにありました。「豊かさとは何か」を現代に生きる私たちは、「故きを温ねて新しきを知る」という言葉に、今一度思いを馳せてみる必要がありそうです。

この日本紀行は1878年12月第59信で終了しています。イザベラの子どもへの優しい眼差しと明治時代の日本人の子どもへの眼差し、どちらも慈愛に満ちていると言っても過言ではなさそうです。

 

142年前の子どもたちを取り巻く環境が、良くも悪くも徐々に西欧化され現代に繋がっています。次回以降も、様々なエピソードを拾いながら明治の子どもたちを見つめてみたいと思います。

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